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あんこと玉砂利

by kei SUZUKI

    2020年は子どもの急性胃腸炎ではじまった。

   元日の夜に突然上の子が嘔吐し、吐くものがなくなるまで吐き続け、夜間救急に運んだ。不憫でたまらないという気持ちと、入院にでもなったら大変だという不安でドキドキしたけれど、翌朝には嘘みたいに元気になっていた。それから一週間後に下の子もまったく同じ症状になって半日で治ったので、今年の胃腸炎の流行なのかもしれない。

   時間を少し戻して、元日の午前中に初詣に出かけたときのこと。

   参道の中央(正中)に散らかった玉砂利を、子どもが拾いはじめた。

    三が日にはたくさんの参拝客が玉砂利を踏みしめて行くから、正中には無数の玉砂利が散らばる。子どもはそのひとつひとつを手に取り、ぽい、ぽい、と、仲間の玉砂利たちがいる元の場所へ投げ還している。いかにも四歳児が好みそうな反復遊びだ。

    こりゃ時間がかかるな。そう思った。あの真剣な目つきには、大人は太刀打ちできない。日が暮れるかもしれない。「やめなさい」と言って聞くような子ではない。諦め半分、もう半分は腹をくくって子どもを見守っていたら、ふと、ひらめくことがあった。

    無数の石のなかからひとつに目をつける。それを手に取って、放る。

    普段スマホを手に大人がやっていることと、すごく似てるんじゃないかと思った。

    玉石混淆とはよくいったもので、情報なんてまさにそうだろう。例えば、一次情報にあたった記事なのか、ネットをうまくつまみ食いしてまとめただけの記事なのか、吟味することもしないで、無防備に情報を手に取る。思索めいているように見せて、じつは手当たり次第。適当に味わって、分かったつもりになったら、興味は次の石(情報)へと移る。情報の洪水を器用に泳いでいるように見えるけれど、鳥の視点で上空から見下ろせば、海で遭難しているも同然かもしれない。

    石の海にたたずむ子どもの姿が、情報社会における大人のデフォルメのような気がして、妙におもしろくなった。

    思ったより早く飽きた子どもが、おやつの時間だからなにか食べに行こうと駆け寄ってきた。親としてはひと安心。これであったかい場所で座れる。

    葛餅で有名な甘味処に入り、ところてんとあんみつも追加で頼んでみんなで分け合って食べた。

    子どもは、あんこの一粒まで自分のものにしようと、母親を牽制して熱心にスプーンを動かしている。その目の輝きは、玉砂利を拾っていたときのそれとなんら変わりはない。ひとの没頭を邪魔しない心がけというのは──私は教育ママでもないし料理以外の家事は下手なのだけれど──私がまぁまぁ誇れることのひとつだ。

    石を拾うのも、おやつを食べるのも、何をするにも子どもの手の動きには無駄が多い。まどろっこしくて不器用だ。親としては思わず救いの手が出そうになることもある。しかし目だけは、真剣そのものだ。その目を見てしまうと、私なんかは、やっぱり、手も口もを出せなくなる。はいはい、飽きるまでお好きにどうぞ、の精神である。

    大人にとっては取るに足らないものでも、子どもにとっては玉のことがある。子どもがまだ小さいうちは、彼らが好奇心の赴くままに出会った何かをまっすぐ見ているその目だけを、親は見守ってやっていたら、それだけで良いのかもしれない。

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